シェフ・パティシエ菊川
三島のシンボル・・・・・・Vol.5 三島大社
三島と言えば・・・・・三島大社
源頼朝公が、伊豆から全国へ声をかけ平家討伐の旗揚げをした場所。
東海道五十三次も「三島宿」は、大社の大鳥居
三島市民も、年間の大社の行事以外にも、出産・初宮参り・・・入学・学業成就・・・成人式・・・・結婚式等ライフイベントにも欠かせません。
広い敷地の南側、大鳥居をくぐりすぐに 「神池」 が、あります。
鯉に、えさをやる人々が多いですが・・・・そこに悠々自適に、のんびりと時間が止まったかのような、甲羅干しをする「神池の亀」が鎮座しています。
三島の祭りや、初詣などの喧騒のなかでも、およそ世間とは無関係なその姿からお名前を拝借した・・・・・「 神池の亀の甲羅 」
日本橋「トロイカ」で、修行をしていた二代目:恒明の「ロシアケーキ」のなかでも、クルミを一番使うクッキーで、一手間かけた逸品です。
「 神池の亀の甲羅 」・・・・10個入り、2100円(贈答用、店頭価格)
三島巡り・・・・・Vol.4 「楽寿園」
三島駅南口から、すぐ目の前の 「 楽 寿 園 」
三島市民の憩いの場,小さい時から 「お絵かき」「校外学習」・・・・「デート」などで使われている三島のシンボルパークです。
自然豊かな園内の中ほどの 「 小 浜 池 」
富士山の雪解け水の 「 湧 き 水 」によって季節ごとに水位が変わりその姿も色々
https://www.facebook.com/rakujyuen (楽寿園フェイスブックページ)
水位の変わり方で、子供たちの絵の描き方、遊び方も変わります。
その、小浜の池の底の溶岩石からヒントを得て銘銘した
「 小浜池の石ころ 」
旧:ロシアケーキ名、「 ロック 」
バタークッキー生地にレーズン、クルミ、ココナッツや、少しのチョコレートが入ってます。
「小浜池の石ころ 10個入り」・・・・・2100円(贈答箱、店頭価格)
三島の見所・・・・・Vol.3 湧き水
三島と言えば、その豊富な水の量から昔は、水辺の街として市内の所々から湧き水が湧いていました。
昭和36年、2代目・恒明は広小路店舗では手狭な作業場を「芝町」に移します。
地所は、近くの円明寺の所有。当時としてはモダンな3階建て1・2階作業所、3階自宅。
その芝町、パンケーキ工場にも井戸があり、一年中一定温度の冷たいお水が「飲み放題!」っだた幼少の頃を思い出します。
昭和38年、長女・ちひろ、S40年、長男・儀明が誕生。オリンピック、新幹線、高度成長・・・・「菊川製菓(有)」も少しづつ成長しながら、店舗も3店舗までに。
子供の頃は近くの「水泉園」「菰池」辺りは水が豊富で、「湧き水」の様子が不思議で「何処まで手が入るか?」「何処の湧き口が一番深いか?」などと遊べたものです。
市内の湧き水の量も、昭和も40年代ころからは、めっきり減ってきて、最近まで減り続けていた様です。
さて、お菓子の銘銘の話。
上の2枚の共通点「砂模様」から
「湧き水の砂模様」 (旧、ロシアケーキ・ウォールナッツ)
二代目・恒明は、東京日本橋「トロイカ」で修行。その頃メインに作られていた「ロシアケーキ」・・・(本当にロシアにあるかは未確認:笑)
その中の一つで、クッキー生地に熱々の煮込んだナッツ類をのせて焼いたものです。
「ウォールナッツ」と言うだけあってクルミがたっぷり入った焼き菓子です。
そのクッキーを「三島の見所」からお名前を拝借して
「湧き水の砂模様」 と、名づけました。
「湧き水の砂模様」・・・10個入り2100円(贈答箱込み、店頭価格)
三島の名所からお名前拝借・・・・Vol.2 「源兵衛川」
三島の楽寿園から流れる「源兵衛川」よく使われれていて子供たちの遊び声が絶えないのは、本町広瀬橋付近
うちの焼き菓子「源兵衛川の小船あそび」の物語は、
広小路・三石神社よこの源兵衛川・・・・南側の、めがね橋周辺
作られた時期は、古老の話によると明治の中期か後期ごろ(19世紀末か20世紀初頭)とのことですが、年代や工事に携わった石工などの記録はありません。
石橋の研究家も見学に訪れ、このめがね橋が東海地方唯一の2連のアーチ型石橋ではないかと、その文化財としての価値を認めています。
昭和6年に広小路に引越し、開店準備を始めた、初代、儀雄・千代子夫妻、7年には長女・幸子、9年に長男・恒明(二代目)が誕生します。
開店間もない昭和9年当時、丹那トンネル開通、東海道線・三島駅の新設(中土狩から)などで都会から、伊豆から人が沼津・三島にあふれていた当時、・・・・・・・あの・・・・・・・・太宰治さんも友人との待ち合わせに、当店の2階喫茶室をお使いになられたようです。
当時の友人の方によると、みかん箱に寝かされた赤子や走り回る少女、洒落たお菓子と、気丈に働く「若女将のコーヒー」を、三島の思い出としてコラムに書くぐらい後年、懐かしんでいたようです。
当然、初代女将・千代子は東京から田舎に連れてこられて、忙しい毎日で「どの書生さんが偉くなりそうか?」「兵隊さん、女学生さん・・・・忙しくてそれどころではなかったらしい」:笑
さて、話は・・・・「ロシアケーキ」(現:みしまめぐり)
「源兵衛川の小船あそび」・・・富士山の湧水が市内いたる所で湧く冷たい川で、遊ぶ子供たち・・・・・軍部が戦争へ向かう昭和の初期
近くの西小学校へ通う、菊川四兄弟姉妹の遊び場、三石神社の横の源兵衛川に小船を浮かべたか?どうかは知りません(笑)
「源兵衛川の小船あそび」 10個入れ、2100円(贈答箱、店頭売り)
三島のみどころからお名前拝借・・・・vol.1
三島・広小路本店の隣、うなぎ「桜家」のさらに隣に「三石神社」があります。
この神社には三島本町の氏神さまが祭られていて、その昔横を流れる「源兵衛川」に三石という巨石があり、そこに社殿を建て稲荷さまを祀った事から三石神社と名づけられたらしいです。
専属の神官は居ないため、神事は三島大社の神官が来て執り行います。
三石神社の境内にある「時の鐘」は、江戸時代以前から旅人や三島の人々に時を知らせる鐘として親しまれてきました。
たびたびの三島宿の火事や,昭和の大戦での軍需供給を経て、
現在の鐘は、昭和25年に市民有志により再建された鐘です。
昭和6年に、芝町「菊や」の次男・菊川 儀雄が、今の広小路店の場所を借り一家を引越しました。当時は木造平屋でしたが、お菓子とは関係ない親戚の機械屋さんに手伝いに行きながら,子供たちを育てます。
戦前・戦中は、当時まだ静岡県内でも数件の「洋菓子と喫茶」というスタイルで営業をはじめます。(戦時中の「ララ」を使えない話はまた後日)
戦後、配給の砂糖をお客様から頂きながら、それを飴に変え,お菓子を作り,幾ばくかの手数料(原料)頂きながら・・・生計をたてます。
次回は、ロシアケーキ秘話?
三石神社の時の鐘・・・8個入り、1800円(贈答箱、店売り)
天然甘塩を入れて・・・・・ガレット・ブルトン
SNSや、ブログのプロフィール用に使っている、顔写真を誤魔化す・・言ってみれば「被り物」ぐらいインパクトのある「ガレット・ブルトン」
ご存知の方も居るかも知れませんが、バターの美味しい!ブルターニュ地方で多く作られるクッキーの総称です。
店によって、シェフによって様々に変化・応用できる「焼き菓子」のなかでも王道の厚焼きクッキーです。
コロンブスの卵で、プロが知ってしまえば、普通に作れてしまう「厚焼きクッキー」ですが・・・
ご自宅で、簡単にとは中々出来ないちょっとだけ上級者向けの作品です。
レシピだけではサクサク!ほろほろ感!が、中々出にくく
大人が上手に食べても、口の周りや、テーブルの上を汚してしまうほどのサクサクで崩れやすい食感が理想です!
それには、いつも言っている「同じ分量、同じ仕込み方でも違うものが出来てしまう」ほど仕込にも、焼き方にも細心の注意が必要とされます。
うちの店の場合ですと、3年目以上でないと中々触らせません(手伝いだけならすぐ出来ますが任せて貰えない)
日本のバターでは中々、理想の味に近づけなかったんですが・・・・天日干しされた「天然の甘塩」を使ってみたら、少しだけ仏・ブルターニュの味に近づけた気がします。
↑ 上 ↑ これが、奇跡の一枚!名刺や、プロフィール写真に使っている写真で、
撮影者は8歳の時の長女:みゅう。
初めてコンパクトなデジカメを持たせて、無理やり撮ってもらった一枚です。
後ろは、フランス・パヴァイエ社のトパーズ!(熱風で焼くコンベクション・オーブン)
モンブランの秘密・・・・Vol.4
当時、250円で大きくて、安くて、食べやすい「洋菓子屋の定番モンブラン」
中国栗に、白餡を練りこんだ「 黄色いモンブラン 」
2度目の渡仏でわずか1年半で帰国。
フランスの田舎町よりは、東京に近い三島はまだましな方だと、勝手に思い・・・少しずつ先代の既存メニューに「新メニュー」を出していけば・・・と、甘い考えで家に帰ってきたものの・・・・小さい店で、昔からの職人&地元パートさん「お給料を貰える仕事」としてのお菓子作り
決して、「美味しい物を!」「最高の仕事で!」よりも、言われた事を毎日やるだけ。永く居られれば、何も苦労しない。人ばかり・・・・
もちろん悪い事ではないですが、あまりにも自分の今までと違いすぎ、途方にくれて・・・・・・そうだっ「モンブラン」
そう、お客様にも、先代のスタッフたちにも「変わった、代わった」事を理解させるには・・・・・「モンブラン」
でも、「ララ洋菓子店」にケーキを買いに来るお客様に急に「新作モンブラン」では、お客様が迷ってしまう。
特に保守的な田舎町では、「 変化 = 拒絶 」の、アレルギー反応で売上が減る恐れも・・・、
じゃあ、モンブランをどう?変える?・・・・材料は?問屋は?業者は?商社は?
フランスの食材輸入商社にマロンペースト・マロンクリームの確認。
アーモンドパウダーは、フランス・東京のように自社でアーモンドから粉砕、ローラーとはいかず、なるべく荒いものが取れる業者を探し。
多くの洋菓子屋がコスト面重視で、油脂メイカーのコンパウンドクリームを使っていたものを高いけど「純生クリーム」に!
純生クリームの配送頻度を、生クリーム専業乳業者に確認。
後は、「メレンゲ」「クレームオブールマロン」「シャンティー」「クレームドマロン」などを仕込み!
まずは、パートのおばちゃん達に食べてもらい、職人に食べてもらい、それでも2種類「モンブラン」があってはおかしいので、「フランス産マロンクリーム」とても小さくて、お値段も高くて320円!
冷蔵が普通の厨房に、国産だったけど冷凍庫を入れて、「急速冷凍」
普段の仕事が片付いた後の仕込み、夜中に急速冷凍・・・そんな新作2・3品が当然・・・売れるはずはなく・・・・・
さあ、どうするか?
仕入れた材料代も自己負担!残業も、早出もすべて自分で・・・広告費だけは少し出してもらって・・・「大売出し!」
それも「半額!」食べて貰えば・・・味がだめな筈はない!値段が田舎には・・・?なら「値引き売り出し!」
あまり頭の良い策ではないですが・・・自信作を世に出すキャンペーン!
結果は・・・・3日間で1000個、次の月にも3日間2000個!半年後に3日間・・・・・
そして、2年ぐらいで・・・「ララのモンブラン」は、これ!ってなって、「黄色いモンブラン」は、引退。
しばらくは、懐かしの黄色いモンブランとしてロールケーキ型でやったりしましたが、今ではもう「あの黄色いモンブラン」・・と、お客様から声が聞こえる事もなくなりました。
モンブラン小、特大モンブラン15cm、特注モンブラン18cm
で、普段でも普通にご指名、ご注文を受けられるようになりました。
モンブランレシピはこちらのフェイスブックノートから
モンブランの秘密・・・・Vol.3
モンブランのレシピ(リンク)は、このページの一番下です。
さて、前回,前々回の続きです。
東京・尾山台「 A ・B・ V・ T 」河田氏のもと4年目に入り,アントルメティエを任されるようになって、なんなく「 モンブラン 」を絞り。
生ものの面白さも判ってきた頃、腰に激痛!
何ヶ月か違和感はあったものの・・・・姿勢が悪いからかな~?ぐらいに
痛いのなんのって・・・・その前までも先輩たちも「血尿なんか出てやっと半人前!」・・・・「体育会系なら部活でそれぐらいやってるだろ~」・・・・各先輩たちは地方で5・6年それなりにやってきて、いわゆる「箔を付ける」・・・・「フランスに行く準備」・・・・「料理人から菓子職人へ」とか、他の店ならシェフクラス当たり前みたいな人達が少数精鋭で,・・・しかもお店の地下のラボの中で・・・・根つめて仕事している。
ピーンと張った空気の中、最高の菓子を出す!って事だけに集中している!
隙があれば、人のポジションを伺う(取ってやる!)くらいの勢い!
そこで、ちょっと腰が・・・・痛いので休ませて・・・・なんて言えない!
半年くらい繁忙期を頑張って,少し時間が取れた頃のお店の休日。初めて病院へ
予想に反して・・・と言うか,予想どうり・・・・石!腎臓結石。トホホ
アントルメ(生のケーキ)のポジションを、泣く泣く・・・同僚に代わってもらい、入院。
東京での、1週間ぐらいの入院では石が出きらなくて、薬で仕事に復帰したものの・・・お店になんとなく迷惑をかけて続けることもできず。
河田シェフとも話をして、完全に治してから,出来れば「フランスに行きたい!」って、はっきり!
体を治して,次の店にと言ってくれましたが・・・・当時東京のどのお店も「売れている店」「美味しいお店」「異業種参入」「外資系」・・・・・どれもしっくり来ない。
「シェフのやりたい事をそのまま表現している店」を、探しに再びフランスへ行く事になったわけです。
そして、前回お話したフランス・リヨンでの「東京のモンブラン?」のお話
91’湾岸戦争の勃発で、失業⇒帰国⇒帰郷
前々回の「黄色いモンブラン」がまだまだ当たり前の「三島」へ
そして、次回こそ黄色いモンブランvs.モンブラン
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モンブランの、こだわり・・・Vol.2
昨日の続き
2度目の渡仏で、リヨン2区クール・ガンベッタの、「 ルネ・モンテラ 」で、働けて2ヶ月ぐらいたった頃、
小さいお店なので、朝5時から、ヴィエノワ、焼き物、朝出し、仕込み・・・・お昼休憩2時間・・・・・仕込み、時折ショコラティエなども、何でもやらせてもらい、少しづつ慣れてきた頃
「何か東京のお菓子を作ってみろ」って、言われて最初に作ったのが 「 モンブラン 」でした。
日本、東京でも「甘~く感じるモンブラン」
レシピも尾山台のまま、材料も生クリームのメイカーが違う程度、糖度も割合もそのままに作った「モンブラン」
反応は・・・・・「ん~上手い!最高だ!」と、厨房の皆も絶賛!マダムもヴァンドゥーズ(店員)までも褒めてくれて・・・・
でも、お店で(フランスで)出すには、もう少し大きめで,マロンが濃いほうが「売れるんだよな~」って、仲間が・・・
パリの「アンジェリーナ知ってるか?」「食べたことあるか?」って、美味しいんだけど・・・・日本の味VS.フランスの味
どちらか良し悪しを決めるのではなく,自分の舌を信じてレシピを作るんだ!・・・と,モンテラさん。
その後も、「 フランボワジエ 」「 プランス・ガスコーニュ 」「 メキシカン 」などを暇な時に,小さい量で仕込ませて貰っては、食べさせて賞賛は貰うものの・・・?
まだ、自分のレシピが完成されていない、悩めるお年頃、菊川 儀明:当時25歳
モンブランとの格闘は、まだまだ続きます。
次回は帰国後の「黄色いモンブラン」vs.「尾山台モンブラン」